江戸時代、国定(三代豊国)作 伊勢の海士 長鮑制之図 / 旅籠屋丸一
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書画

旅籠屋丸一の館内や客室には、個性豊かな書や絵画が飾られています。力強い書や味わい深い絵が、和の趣だけでなく、多彩な表現で空間を彩ります。訪れる方の感性に響く作品とともに、心落ち着くひとときをお過ごしください。

勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟

幕末三舟の書

※こちらの書は現在公開しておりません。
幕末三舟の書(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)/旅籠屋丸一

幕末三舟(ばくまつさんしゅう)は、幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三名の総称。旅籠屋丸一にはこの三名の貴重な書が大切に展示されております。

幕末、徳川慶喜から戦後処理を一任された勝は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋を推薦しましたが、高橋は遊撃隊(慶喜の身辺警護にあたる)の隊長を務めており、江戸を離れることができませんでした。代わりに推薦されたのが、高橋の義弟にあたる山岡だったのです。

慶応4年(1868年)3月9日、山岡は西郷との会談で、江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功しました。その後、勝が単身で西郷と交渉し、同年4月11日、江戸城は無血開城されることとなり、江戸を戦火から救った勝、山岡、高橋の名前にいずれも「舟」がつくことから、この3人を「幕末の三舟」と称するようになりました。

江戸中期の文人画家

谷文晁の山水画

谷文晁の山水画/旅籠屋丸一

谷文晃(たに ぶんちょう)は江戸中期の文人画家。文晃は松平定信に従って諸国を巡歴し、「集古図絵」「集古十種」の挿絵を描きました。このほか「名山図絵」「本町画纂」「公余探勝図鑑」「五柳先生図」などがあり、人物、山水、花鳥、虫魚を得意とし、特に水墨山水に妙を得ておりました。天保十二年(1841)12月14日没。享年78歳。文化年間には酒井抱一、亀田鵬斎と共に江戸の文墨界を代表した人物の一人です。

漢学者、備中松山藩士

三島中州の書

※こちらの書は現在公開しておりません。
漢学者、備中松山藩士 三島中州の書/旅籠屋丸一

旅籠屋丸一、本館玄関には三島中州(みしまちゅうしゅう)の書が掛けられております。漢学者で備中松山藩士、名は毅。字は遠寂。通称は貞一郎。号は桐南、中洲、絵荘。14歳で山田方谷に学び、のち、斎藤拙堂、佐藤一斎に教えを受けました。30歳で備中松山藩に仕え、有終館学頭となります。

板倉勝静が老中になると顧問となり、維新後の明治3年(1869)備中松山城下に虎口渓舎を開きました。43歳の時、明治政府に応じて、司法官となり、また、二松学舎を設立し漢学の振興に努めました。東京帝国大学教授、東宮侍講、宮中顧問官などを歴任しました。

江戸時代、国定(三代豊国)作

伊勢の海士
長鮑制之図

江戸時代、国定(三代豊国)作 伊勢の海士 長鮑制之図 / 旅籠屋丸一

伊勢の海士 長鮑制之図(いせのあま のしをせいすのず)は、江戸時代末期に多くの俊才を排出した歌川派の中にあって国芳(くによし)・広重(ひろしげ)とならび、当時の浮世絵界を代表した歌川国定(うたがわくにさだ)(三代豊国・さんだいとよくに)の作品。国定は、舞台の熱演を活写した役者絵、粋の美意識をよく表現した美人画のみならず、生活の中の何気ないしぐさにまで及ぶ風俗描写に優れた浮世絵師です。作品は三枚の続き物で、現代のハイビジョンテレビに近い横長の画面によって、海女を乗せた小舟や帆船が遠くに浮かぶ凪いだ海原を背景とする広々とした海浜風景を描き出しています。

OTHER

その他

ご紹介した展示物以外にも客室や館内随所には、丸一の蔵に眠っていた書画300点以上の中から、季節に合わせた展示を行っております。時代を越えた数々作品をお楽しみください。