Maruichi's history
創業はおよそ江戸時代の享保年間で、旅籠屋丸一は猿ヶ京温泉の歴史深い宿のひとつという事になります。当時の猿ヶ京温泉は、越後から米や塩を持って来る人々と、江戸からそれらを買い付けに来る人々との合流地点であった為、本陣を置くほど往来の激しい場所でした。丸一屋は宿としても賑わっていた一方、七代目で、諸国を巡らし馬喰で財を成した友七、八代目で蘭方医だった彦司など他の道を極めた人も傑出しました。
群馬県史、資料編12による江戸時代 天保頃 諸行高名録 丸一屋 友右ェ門
特に友七は書画に造詣が深く、画学生や絵師などを逗留歓待して描かせた彼らの作品はもとより、高名な書画も広く収集しました。それらが時を超えて現在、旅籠屋丸一の館内随所に飾られているわけです。
「蔵の湯HAYASHI」の前身である蔵も七代目の建てたもので、玄関ホールの天井の横柱には大きく「友七」と自筆の力強い筆文字が 残されています。また、明治維新にかけて幕末で活躍した書画が点在することから、 友七も新しい時代を望んだ人物の一人だったかもしれません。
その後、本格的な街道の宿としての歴史は閉じられていましたが、十三代目が再び開業にこぎつけ、先人達の想いに耳を傾けながら少しずつ形を変えて現在に至っております。 古きよき時代の作品や調度品の中で、 少しでも安らぎを感じて頂く事が十五代目の宿主の願いです。
Calligraphy and painting
勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟
幕末三舟(ばくまつさんしゅう)は、幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三名の総称。旅籠屋丸一にはこの三名の貴重な書が大切に展示されております。
幕末、徳川慶喜から戦後処理を一任された勝は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋を推薦しましたが、高橋は遊撃隊(慶喜の身辺警護にあたる)の隊長を務めており、江戸を離れることができませんでした。代わりに推薦されたのが、高橋の義弟にあたる山岡だったのです。
慶応4年(1868年)3月9日、山岡は西郷との会談で、江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功しました。その後、勝が単身で西郷と交渉し、同年4月11日、江戸城は無血開城されることとなり、江戸を戦火から救った勝、山岡、高橋の名前にいずれも「舟」がつくことから、この3人を「幕末の三舟」と称するようになりました。
江戸中期の文人画家
谷文晃(たに ぶんちょう)は江戸中期の文人画家。文晃は松平定信に従って諸国を巡歴し、「集古図絵」「集古十種」の挿絵を描きました。このほか「名山図絵」「本町画纂」「公余探勝図鑑」「五柳先生図」などがあり、人物、山水、花鳥、虫魚を得意とし、特に水墨山水に妙を得ておりました。天保十二年(1841)12月14日没。享年78歳。文化年間には酒井抱一、亀田鵬斎と共に江戸の文墨界を代表した人物の一人です。
漢学者、備中松山藩士
旅籠屋丸一、本館玄関には三島中州(みしまちゅうしゅう)の書が掛けられております。漢学者で備中松山藩士、名は毅。字は遠寂。通称は貞一郎。号は桐南、中洲、絵荘。14歳で山田方谷に学び、のち、斎藤拙堂、佐藤一斎に教えを受けました。30歳で備中松山藩に仕え、有終館学頭となります。
板倉勝静が老中になると顧問となり、維新後の明治3年(1869)備中松山城下に虎口渓舎を開きました。43歳の時、明治政府に応じて、司法官となり、また、二松学舎を設立し漢学の振興に努めました。東京帝国大学教授、東宮侍講、宮中顧問官などを歴任しました。
江戸時代、国定(三代豊国)作
伊勢の海士 長鮑制之図(いせのあま のしをせいすのず)は、江戸時代末期に多くの俊才を排出した歌川派の中にあって国芳(くによし)・広重(ひろしげ)とならび、当時の浮世絵界を代表した歌川国定(うたがわくにさだ)(三代豊国・さんだいとよくに)の作品。国定は、舞台の熱演を活写した役者絵、粋の美意識をよく表現した美人画のみならず、生活の中の何気ないしぐさにまで及ぶ風俗描写に優れた浮世絵師です。作品は三枚の続き物で、現代のハイビジョンテレビに近い横長の画面によって、海女を乗せた小舟や帆船が遠くに浮かぶ凪いだ海原を背景とする広々とした海浜風景を描き出しています。
Other
現代の代表的な日本画家の一人。「土牛(とぎゅう)」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられました。旅籠屋丸一では、本人が描いたいくつかのデッサン画を飾っています。
日本生まれの画家・彫刻家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家です。
群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)に生まれる。一貫して主題(画題)を如何に表現するかということを追究し続けた、日本の絵画史に異彩を放つ作家です。あるオークションで絵画を手に入れました。
群馬県群馬町に生まれる。群馬県文化功労者。久保繁造さんの御子息と知り合って、この絵画との出会いがありました。色鮮やかな筆遣いが特徴です。
滋賀県滋賀郡大津市(現大津市)丸屋町生まれ。日本美術院に属する画家として活躍、女性として初の日本美術院理事長になるなど、まさに女性日本画家のトップと呼ぶべき優れた画家です。館主が好きな画家で、機会があって手に入れた絵画です。
オーストリア・ハンガリーの首都ウィーン近郊に生まれる。二十代で早世した天才画家で広く認知されている。
1905年に現在のポーランドでユダヤ人として生まれました。古き良き時代を伝える画家、それ故に貴重な作品です。
芸術家たちが宿泊代の代わりに描いた書画を収集していた当館七代目の友七。一枚一枚切らずに残った珍しい作品をダイナミックに展示してみました。
ご紹介した展示物以外にも客室や館内随所には、丸一の蔵に眠っていた書画300点以上の中から、季節に合わせた展示を行っております。時代を越えた数々作品をお楽しみください。